Facebook等ではお知らせしていましたが、心の整理がついてきたので、こちらでもご報告します。
ほしみが空にかえっていきました。
【日時】
2017年3月7日 午前2時半過ぎ
【享年】
11歳1カ月
【場所】
静岡県浜松市某区の自宅。(昨年、ほしみの老パグ生活に備えていろいろ改造したばかりでした……)
【霊園】
ラブフォーペッツにて荼毘にふし、その日のうちに連れて帰りました。
【死因】
悪性リンパ腫による多臓器不全の疑い
【余命告知】
2016年12月上旬に食欲不振などからの体調悪化により投薬で持ち直すも、残り3ヶ月くらいだろうと。
【薬】
アズノール(抗菌剤)
整腸剤
ディアバスター(止しゃ剤)
プレドニゾロン(ステロイド)
クロピドグレル(抗血小板剤)
シクロスポリン(免疫抑制剤)
ヘパアクト(肝保護剤)
クロピドグレル硫酸塩(抗血小板薬)
ウルソデオキシコール(胆肝機能改善薬)
※この他に血液検査料などで、1ヶ月約40000から60000円の医療費がかかりました。
【診断から最期まで 】
昨年12月始めのこと。
下痢でお薬をもらったものの、改善が見られなかったために再び訪れた病院で、私はほしみの血液検査を薦められました。
あのとき、獣医さんは、
「少し早めの誕生日前の健康検査のつもりで」
と、言ってはいてくれたものの、けしてその言葉は明るいものではなく。
はたして結果は、アルプミンがかなり低く、食欲がなく下痢をするなどの症状を見て、おそらく悪性リンパ腫の可能性が高く、このままにしておいたら年は越せないどころか、今日明日の命だろうと宣告されました。
その時のほしみは食欲がなくなり、強制的になんとか食べさせることができてもそれは下痢となり。
素人目から見ても、かなり危ないことは理解できました。
これからどうしたらいいのか。
道は2つ、提示されました。
1つ目は内視鏡検査を行い、確定診断を行って抗がん剤をはじめること。
でも、内視鏡検査をやるためには麻酔をかけなければならず、しかもそれで確定できなければ開腹して検査をしなければならないらしく。
その上、それらを無事にクリアできたとしても、抗がん剤が効かない場合もあるようで。。。
ほしみは弱っていました。
そして私たち家族は、抗がん剤に至るまでの過程において、ほしみを失うことを恐れました。
結果、2つ目に提示された緩和ケアを行い、彼女の残された時間を少しでも良いものにする努力をしていくことにしました。
そこから、いつ来るかわからないほしみの最期と向き合う日々が始まりました。
私とダンナ氏は、家事と仕事と子育てに追われながらも、残りの時間のほとんどをほしみに注ぎ、大切に大切に過ごしました。
ほしみは緩和ケアのために嫌々ながらもステロイドを含めた1日7種類の薬を服用し始め、その代わりにいつも通りの体力を取り戻し、日々を楽しく過ごしていたようでした。
1ヶ月を越えたあたりでステロイドの副作用により肝臓の数値が上がり、かといって減らしたら食欲とアルプミンの値が落ちる。アルプミンが下がりすぎると腹水が……という話もあり、主治医の先生はバランスを探りながら薬を処方し、いつもほしみに励ましの言葉をかけてくれました。
先生には、私にもほしみにも、いつも適切な対応をしていただきました。本当に有り難かったです。
そうして迎えた2月3日。
最初で最後のご馳走のない誕生日。
でも、ほしみはかなり痩せている以外はいつも通りにのんびり楽しげで、私たちは喜びを噛み締めていました。
11歳おめでとう!
このまま12歳とか迎えていってくれたら……。
そう願っていた2月23日。恐れていたことが起こりました。
その晩、家族が寝静まった午後10時。
私はほしみのそばで寝当番のためにリビングに布団を敷いて、ひたすら思い出話をしながら彼女を撫で撫でしていました。
ほしみも嬉しそうにこちらを見たり、目を細めたりしていました。
1時間くらいした頃でした。
ほしみはヨッコラショと起き上がり、立ち上がろうとして…………左右の後ろ足が動かず踏ん張れずに、よろっと転倒しました。
愕然とする私の前で、ほしみは驚き戸惑いながらもこちらを見つめ、何度も立ち上がろうとしました。
やがて、私が腰の辺りを持ち上げると、ほしみはなんとか歩きだし、水を飲みに行きました。
この2日後。
ほしみは完全に歩けなくなりました。(オシッコには死の前日の朝まで這ってベッドから出てトイレシートに行き、うんちは死の1週間くらい前から出ていなかったように思います。
食事は二月半ばまでは通常通りフードを一皿、それ以降は1日にヨーグルトをスプーンに数杯。水は死の前日お昼頃まで飲めていました)
ほしみが完全に歩けなくなった日。
もう1つ、私を愕然とさせたことがありました。
それは眼振が始まったことです。
お薬をもらいに行った病院で、突然、
「きゅぅぅーーん…………」
と小さく鳴いた後。
眼振は始まりました。
こちらの問いかけには一切応えず、ただ左右に揺れる目。
それを見た先生は、もう薬の効果は期待できないと診断され、投薬を中止。
そこから週2回の点滴のみの通院になりました。(眼振はその後、数日くらいで落ち着きました)
それから約10日。
途中、ダンナ氏の出張の間に少し危なくなりながらも踏ん張り、そして3月6日の昼間。
ほしみはダンナ氏に甘え、のせてもらったお腹の上でシッポを振りました。
何度も何度も振りました。
宣告されてからずっと、こんなに振ったことはありませんでした。
ダンナ氏は、
「ほしみはまだまだいけるんだ」
と、喜びました。
子供たちはもちろん、当の本犬ほしみも、皆皆、嬉しそうでした。
そして私は久しぶりにほしみのそばで夕寝をしました。何故か、手のひらにほしみの顎をのせて。
この3ヶ月の間、気が休まることはほとんどなく、子供たちの世話や日常で、私はもう疲れきっていました。
でも、こうやってほしみとゴロゴロしているときは、彼女と暮らし始めたばかりの頃のあののんびりした気持ちを思い出し、癒されていました。
「あー、懐かしいねえ。京都にいた頃を思い出すねえ」
そんなことを言って起きた夕方、ほしみを撫で撫でしました。
けれど、それから2時間も経たないうちに、ほしみの様子が明らかに変わりました。
お腹が凹むような荒い呼吸をし、私が話しかけてもこちらを見ることすらしなくなったのです。
信じたくないし、認めたくない、けれど確実にそこに迫ってきている。言い様のない大きな恐怖に、私は押し潰されそうになりました。
子供達は眠り、ダンナ氏は出張で疲れきっていたこともあったし、何より私がほしみから離れられなかったので、この晩の寝当番は私になりました。
けれど、こんなこれまでとは明らかに違う状態をそばにいつものように眠ることもできず、私はリビングを薄暗くしてただテレビだけつけて、ほしみのそばにいました。
そばで横になって、ぼうっとしたりもしていました。
そして3月7日になり、あれは午前1時だったか2時だったか。
私が立ち上がって、ふと思い出した子供の用事を片付けたか何かしたとき。
「ぶ、ふぅ~」
ほしみは、懐かしい寝息のような鼻息をつきました。
その時、いろんな懐かしい光景を思い出し、あたたかい気持ちになりました。
走馬灯ではないけれど、一瞬でこの11年のいろんなことが駆け巡った気がしました。
そしてほしみは再び、鼻息をつきました。
「ぶ、ふぅ~」
そろそろ寝ようか、と思いました。
もう寝不足決定だけど、夜が明けて朝になったら、娘の幼稚園の支度をしないといけないし……。
「おやすみ、ほしみ。また明日ねー」
私はそう言って、リビングの電気を消しました。
その瞬間。
何故だか、そこに誰もいない気がしました。
まさか、そんなはずはないと再び電気をつけたら。
ほしみは眠るように息を引き取っていました。
宣告されてから、ほしみにはずっと言っていました。
「出来れば、パパとママが家にいるときに逝ってね。出来ればママの腕の中で逝って欲しいけど、無理だなあって思ったら、逝ってもいいからね。いっぱいいっぱい頑張ってるもんね。
パグ孝行をする時間をくれてありがとうね」
体重が4㎏を切りそうになるくらいに痩せて、とてもしんどかっただろうに。
ほしみは私の願いを叶えて、旅立っていきました。
ほしみと出会って11年。
いろんなことがありました。本当にたくさん、ありました。本当にもう、数えきれないくらいに……。
今はただ、苦しみから解き放たれたほしみが安らかであるよう祈るばかりです。
ありがとうほしみ。
さようならほしみ。
さようならパグのいる日々。
仲良くしてくださった皆様、お世話になった先生方、トリマーさん達、ありがとうございました。
楽しく、かけがえのない11年でした。
ほしみが空にかえっていきました。
【日時】
2017年3月7日 午前2時半過ぎ
【享年】
11歳1カ月
【場所】
静岡県浜松市某区の自宅。(昨年、ほしみの老パグ生活に備えていろいろ改造したばかりでした……)
【霊園】
ラブフォーペッツにて荼毘にふし、その日のうちに連れて帰りました。
【死因】
悪性リンパ腫による多臓器不全の疑い
【余命告知】
2016年12月上旬に食欲不振などからの体調悪化により投薬で持ち直すも、残り3ヶ月くらいだろうと。
【薬】
アズノール(抗菌剤)
整腸剤
ディアバスター(止しゃ剤)
プレドニゾロン(ステロイド)
クロピドグレル(抗血小板剤)
シクロスポリン(免疫抑制剤)
ヘパアクト(肝保護剤)
クロピドグレル硫酸塩(抗血小板薬)
ウルソデオキシコール(胆肝機能改善薬)
※この他に血液検査料などで、1ヶ月約40000から60000円の医療費がかかりました。
【診断から最期まで 】
昨年12月始めのこと。
下痢でお薬をもらったものの、改善が見られなかったために再び訪れた病院で、私はほしみの血液検査を薦められました。
あのとき、獣医さんは、
「少し早めの誕生日前の健康検査のつもりで」
と、言ってはいてくれたものの、けしてその言葉は明るいものではなく。
はたして結果は、アルプミンがかなり低く、食欲がなく下痢をするなどの症状を見て、おそらく悪性リンパ腫の可能性が高く、このままにしておいたら年は越せないどころか、今日明日の命だろうと宣告されました。
その時のほしみは食欲がなくなり、強制的になんとか食べさせることができてもそれは下痢となり。
素人目から見ても、かなり危ないことは理解できました。
これからどうしたらいいのか。
道は2つ、提示されました。
1つ目は内視鏡検査を行い、確定診断を行って抗がん剤をはじめること。
でも、内視鏡検査をやるためには麻酔をかけなければならず、しかもそれで確定できなければ開腹して検査をしなければならないらしく。
その上、それらを無事にクリアできたとしても、抗がん剤が効かない場合もあるようで。。。
ほしみは弱っていました。
そして私たち家族は、抗がん剤に至るまでの過程において、ほしみを失うことを恐れました。
結果、2つ目に提示された緩和ケアを行い、彼女の残された時間を少しでも良いものにする努力をしていくことにしました。
そこから、いつ来るかわからないほしみの最期と向き合う日々が始まりました。
私とダンナ氏は、家事と仕事と子育てに追われながらも、残りの時間のほとんどをほしみに注ぎ、大切に大切に過ごしました。
ほしみは緩和ケアのために嫌々ながらもステロイドを含めた1日7種類の薬を服用し始め、その代わりにいつも通りの体力を取り戻し、日々を楽しく過ごしていたようでした。
1ヶ月を越えたあたりでステロイドの副作用により肝臓の数値が上がり、かといって減らしたら食欲とアルプミンの値が落ちる。アルプミンが下がりすぎると腹水が……という話もあり、主治医の先生はバランスを探りながら薬を処方し、いつもほしみに励ましの言葉をかけてくれました。
先生には、私にもほしみにも、いつも適切な対応をしていただきました。本当に有り難かったです。
そうして迎えた2月3日。
最初で最後のご馳走のない誕生日。
でも、ほしみはかなり痩せている以外はいつも通りにのんびり楽しげで、私たちは喜びを噛み締めていました。
11歳おめでとう!
このまま12歳とか迎えていってくれたら……。
そう願っていた2月23日。恐れていたことが起こりました。
その晩、家族が寝静まった午後10時。
私はほしみのそばで寝当番のためにリビングに布団を敷いて、ひたすら思い出話をしながら彼女を撫で撫でしていました。
ほしみも嬉しそうにこちらを見たり、目を細めたりしていました。
1時間くらいした頃でした。
ほしみはヨッコラショと起き上がり、立ち上がろうとして…………左右の後ろ足が動かず踏ん張れずに、よろっと転倒しました。
愕然とする私の前で、ほしみは驚き戸惑いながらもこちらを見つめ、何度も立ち上がろうとしました。
やがて、私が腰の辺りを持ち上げると、ほしみはなんとか歩きだし、水を飲みに行きました。
この2日後。
ほしみは完全に歩けなくなりました。(オシッコには死の前日の朝まで這ってベッドから出てトイレシートに行き、うんちは死の1週間くらい前から出ていなかったように思います。
食事は二月半ばまでは通常通りフードを一皿、それ以降は1日にヨーグルトをスプーンに数杯。水は死の前日お昼頃まで飲めていました)
ほしみが完全に歩けなくなった日。
もう1つ、私を愕然とさせたことがありました。
それは眼振が始まったことです。
お薬をもらいに行った病院で、突然、
「きゅぅぅーーん…………」
と小さく鳴いた後。
眼振は始まりました。
こちらの問いかけには一切応えず、ただ左右に揺れる目。
それを見た先生は、もう薬の効果は期待できないと診断され、投薬を中止。
そこから週2回の点滴のみの通院になりました。(眼振はその後、数日くらいで落ち着きました)
それから約10日。
途中、ダンナ氏の出張の間に少し危なくなりながらも踏ん張り、そして3月6日の昼間。
ほしみはダンナ氏に甘え、のせてもらったお腹の上でシッポを振りました。
何度も何度も振りました。
宣告されてからずっと、こんなに振ったことはありませんでした。
ダンナ氏は、
「ほしみはまだまだいけるんだ」
と、喜びました。
子供たちはもちろん、当の本犬ほしみも、皆皆、嬉しそうでした。
そして私は久しぶりにほしみのそばで夕寝をしました。何故か、手のひらにほしみの顎をのせて。
この3ヶ月の間、気が休まることはほとんどなく、子供たちの世話や日常で、私はもう疲れきっていました。
でも、こうやってほしみとゴロゴロしているときは、彼女と暮らし始めたばかりの頃のあののんびりした気持ちを思い出し、癒されていました。
「あー、懐かしいねえ。京都にいた頃を思い出すねえ」
そんなことを言って起きた夕方、ほしみを撫で撫でしました。
けれど、それから2時間も経たないうちに、ほしみの様子が明らかに変わりました。
お腹が凹むような荒い呼吸をし、私が話しかけてもこちらを見ることすらしなくなったのです。
信じたくないし、認めたくない、けれど確実にそこに迫ってきている。言い様のない大きな恐怖に、私は押し潰されそうになりました。
子供達は眠り、ダンナ氏は出張で疲れきっていたこともあったし、何より私がほしみから離れられなかったので、この晩の寝当番は私になりました。
けれど、こんなこれまでとは明らかに違う状態をそばにいつものように眠ることもできず、私はリビングを薄暗くしてただテレビだけつけて、ほしみのそばにいました。
そばで横になって、ぼうっとしたりもしていました。
そして3月7日になり、あれは午前1時だったか2時だったか。
私が立ち上がって、ふと思い出した子供の用事を片付けたか何かしたとき。
「ぶ、ふぅ~」
ほしみは、懐かしい寝息のような鼻息をつきました。
その時、いろんな懐かしい光景を思い出し、あたたかい気持ちになりました。
走馬灯ではないけれど、一瞬でこの11年のいろんなことが駆け巡った気がしました。
そしてほしみは再び、鼻息をつきました。
「ぶ、ふぅ~」
そろそろ寝ようか、と思いました。
もう寝不足決定だけど、夜が明けて朝になったら、娘の幼稚園の支度をしないといけないし……。
「おやすみ、ほしみ。また明日ねー」
私はそう言って、リビングの電気を消しました。
その瞬間。
何故だか、そこに誰もいない気がしました。
まさか、そんなはずはないと再び電気をつけたら。
ほしみは眠るように息を引き取っていました。
宣告されてから、ほしみにはずっと言っていました。
「出来れば、パパとママが家にいるときに逝ってね。出来ればママの腕の中で逝って欲しいけど、無理だなあって思ったら、逝ってもいいからね。いっぱいいっぱい頑張ってるもんね。
パグ孝行をする時間をくれてありがとうね」
体重が4㎏を切りそうになるくらいに痩せて、とてもしんどかっただろうに。
ほしみは私の願いを叶えて、旅立っていきました。
ほしみと出会って11年。
いろんなことがありました。本当にたくさん、ありました。本当にもう、数えきれないくらいに……。
今はただ、苦しみから解き放たれたほしみが安らかであるよう祈るばかりです。
ありがとうほしみ。
さようならほしみ。
さようならパグのいる日々。
仲良くしてくださった皆様、お世話になった先生方、トリマーさん達、ありがとうございました。
楽しく、かけがえのない11年でした。
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by kopug
| 2017-09-21 12:53